ある晴れた火曜日の朝だった
毎週火曜日、私は同じ時間に同じ人と会う
私は「自分が臥薪嘗胆の気持ちで生きることの辛さ」を話した
そのなかで、自分自身が不条理に受けた痛みや苦しみを引っ提げて
毎日、ポストの中にこの時期には検察庁から書類が届いているころだと
朝、見て通り過ぎてゆく。
社会に何かを訴えたいならば、社会人たれという言葉がある。
だから、働いてきている。
ただ、それだけの理由のために自分の心や痛みをないものにしていくことの
難しさを日々感じて、数年がたつ。
私は、その日から変わってしまったのかもしれない。
誰かに対して期待したり、「守ってもらえる」というような恒久的な愛も。
全部が虚構のように感じだした。
だからこそ、紙きれで担保されるようなもので誰かを縛りたくないとも思った。
私は、その火曜日に泣きたくもないのに「臥薪嘗胆」その四文字のために
生きることの辛さを吐露した。
涙が止まらなくなったけれど、そのあとに私が見た、サバイバーの傷。
それが眼に飛び込んできた途端に、嗚咽が止まらなくなった。
私の悲しみや苦しさじゃなくて、その目の前の人が過去に抱えてきた傷を
私は今のように感じて、今までの自分自身の想像力の欠如といえるような
配慮が出来ていなかったことや「負担」というものを強く感じた
けれど、私はそこに触れることなんてきっと到底できないし、
触れることをしたらきっと、もっと、傷つけてしまう気がした。
その帰り道の信号待ち、嗚咽が止まらなくなって
私は私の悲しみを他人にも共有してって、駄々をこねている。
そうなんじゃないかって。
そう思ったら、私の空々しい涙を許してほしいと思った。
共感なんてしなくていい、傾聴もしなくていい。
そう思った。