ボブ髪はかく語りき。

物事を掘り下げすぎて、埋められなくなった人の戯言

将来、僧になって結婚してほしい

椎名林檎の丸の内サディスティックのremixを聞いている。

この曲を初めて聞いたのは中学生のころだった。

高校1年生の時、椎名林檎の「愛妻家の朝食」という曲があった。

私は高校生のころはずっと音楽を授業中も聞いていて、

数理の先生を眺めながらその曲を聴いていた。

今でも、そこから拗れてゆく自分の始まりを聞くと思い出す。

今日は、休みだったのでと言っても痛み止めを処方してもらいに病院に行って

期日前投票に行ってきた。

ここのところ混沌とした気持ちがずっと生々しくある。

遠く昔に起きてきたような、たくさんのことを考えたり。

私が18歳の時の秋の寒々しい夕日と眺めるものすべてが痛いほどに眼に入って

そういった、高揚というのか触れ合いに逃避するような

ぬるくてくすぐったい感情は、冷え切った心に生まれることってないのだろう。

汚れてしまった心の世界を小手先のやりくりでなんとかしようとか

努力してきたけれど、本当に痛い人間だと思う。

いい年して考えることでもないことを毎日考えて、ふとよぎる残像すらも

合理化しようと必死になってしまう。

けれど、「ねえ、ねえ、教えてよ」ってすぐにでも喚いてすがりたいけれど

そんなことできるわけもない。

そうやって、悲しみや無力感をずっと「もう大丈夫よ」っていうのは

本位じゃないけれど、そうする以外に生きる場所なんてないのだ。

生きることは痛いこと、そうやって思えば痛いのは生きているということ。

日が暮れて、一番嫌いな季節が来る。

心のシャッターを閉めてゆく、そうすることでしか人間は生きられないのかもしれない。

なんでも出来てしまいそうなくらいに、誰かを好きになって

思い描いたような幸福を手に入れたとしても、一瞬にしてすべてが壊れてしまった。

だから、二度と構築しないと決めた。

臥薪嘗胆の気持ちで生きることでしか、努力もできない。

歯を食いしばるエナジーを間違っているってわかっているけれど、

けれど、このままずっと「社会人たれ」という臥薪嘗胆の気持ちで生きていたら

どこかで煮詰まってしまうとも思う。

自分の人生を生きているんじゃなくて、私が嫌いな人間をアドバンテージにした

生き方になってしまっている。

現実ほど恐ろしいものはない。

ああ、これが現実の魔法。